祇園祭の八坂神社というのは、昔は祇園社という祇園感神院(かんじんいん)と言われた、本来は仏教のお寺です。そこには、「牛頭天王(ゴズテンノオ)」をお祀りしていました。 「牛頭天王」というのは、"牛"の"頭"と書いて容貌魁偉(ようぼうかいい)なヒンズーの神様のようですが、これが日本では「素戔嗚尊(スサノヲノミコト)」に垂迹(すいじゃく)したとされております。 *容貌魁偉: 顔つき、体つきがたくましくて立派なさま。 したがって、八坂神社、つまり「祇園社」の氏神は「素戔嗚尊」であるわけですが、同時に「牛頭天王」でもあるわけです。 このへんの一体になっているところが日本の非常に特徴的なところです。
外国でも、皆(全て)、いろいろな宗教が一体になってるんですが、これが後のヨーロッパでは、教会関係者が無理矢理に昔の痕跡を全部抹殺していきましたので、一見、純粋な宗教のように見えますが、実際には土着の宗教が皆入り込んで、今日、ユダヤ教やキリスト教なども成り立っているんです。 その、グチャグチャっとややこしいところを裸そのままで、ずっと、皆(全て)、受け入れているのが日本の文化の、これ特徴であるのです。 従いまして、我々は平気で「素戔嗚尊」、イコール「牛頭天王」であるといいます。 ・・こういうことですね。 これは、ちょっと、ヨーロッパでは考えられないことで、例えば、"「キリスト」・・これは北欧の「ヴォーダン」と一緒や!" この様なことは誰も言いませんが、しかし、日本では平気でそのようなことを言っているわけであります。 この「牛頭天王」がどういう伝承で、この「祇園祭」に関わって、伝わっているかと申しますと。 「牛頭天王」というのは容貌魁偉であったせいか、奥様が無い訳ですね。 それで、奥様を求めて妻とりの旅に、北の方から南に下ったと言われております。 私は八坂神社の前の宮司、「鈴木宮司」が書かれた論文ぐらいしか、よく存じませんけれども。 これにはさまざまな伝承があって、日本各地にいろんな伝承がございます。 何れにせよ、要するに北の方から南の方へ妻を求めて旅に出る。 この、"神が旅に出る"・・これも全世界的に広まっておる一つの宗教の形であります。 北欧の「ヴォーダン」も乞食のような格好をして、ヨレヨレっと旅に出て。 そして、何処かのお城へ立ち寄ると、そのお城の王様が"乞食が来やがって!"と言ってこれを虐待します。 ある時、ふと気が付くとそれがヴォーダンで、北欧の主神であったと気が付きますが、その時には時遅く、その国王をはじめ皆殺しになる。 只一人、「ヴォーダン」を哀れんで、水を飲ませてやった王子のみは助かる。 ・・そのような話というのはヨーロッパに沢山ございます。
■ 「巨旦将来(コタンショウライ)」
と 「蘇民将来(ソミンショウライ)」 ですから、この「牛頭天王」もおそらく、そういう、一つの形態の神様で、いわゆる旅に出るわけですね。 その旅の途中で、旅に行き暮れまして、泊まる所が無くなって、困るわけですね。そして、辺りを見渡すと非常に立派なお屋敷があって、繁盛しておるお家がある。 そこで、そこへ立ち寄って、"一晩どこかで泊めてくれないか"と言って頼むわけです。 その立ち寄った先が「巨旦将来(コタンショウライ)」と言われる人物の屋敷ですね。 この「巨旦将来」というのは非常な金持ちでありますので、泊めてくれるであろうと思ったところ、「巨旦将来」はこれを拒否するわけですね。・・泊めないわけです。 それで、困りました「牛頭天王」は辺りを見回しておりますと、そこへ「巨旦将来」の屋敷に勤めている一人の女性が近づいて来まして、"お泊まりにお困りならば、少し離れたところですけれども、「蘇民将来(ソミンショウライ)」という人物がおります。"・・これが兄弟なんですね。 前の「真弓宮司」の講義を聞いたとき時に、この語字には既に意味があるようで、"巨旦(コタン)という、「巨(コ)」というのは"虚しい"という意味でございます。「旦(タン)」というのは"明日"という意味ですね。"虚しき明日"、つまり"明日なき男"なんですね。それが「巨旦将来(コタンショウライ)」の名前の意味のようです。 それに対して「蘇民(ソミン)」というのは"蘇る民(よみがえるたみ)"、つまり、正にこれから繁栄してゆく民族を表しているんだそうです。 いずれにせよ、(その兄弟であります)"「蘇民将来」という人物が、ここから外れた所に暮らしておりますから、その男の所に行かれたら、きっと泊めてくれるでしょう。"と、こういうふうに、その女が忠告してくれるわけです。 その女性というのは、一説によりますと「蘇民将来」の娘であるということになっております。そして、この「巨旦将来」のところへ働きに出ているという説もあれば、「巨旦将来」の妻であったんだとの説もあります。 いろいろあるようですが、何れにせよ、「巨旦将来」のところで働いていた「蘇民将来」の娘が、自分の父親を紹介したということになっているようです。 それを聞きました「牛頭天王」は、おおいに喜んで、その「蘇民将来」の所へ駆けつけるんですが、・・その「蘇民将来」の家というのは、これは「巨旦将来」と違って、もう!軒が傾き、ガタガタの・・"こんな所で泊まれるんかいな?"というような家であった訳ですね。 しかしながら、その中から出てきた「蘇民将来」は、おおいにその「牛頭天王」を歓迎して、何も無いので、"稗(ひえ)""粟(あわ)"のお粥を炊き、そして"そば殻"か何かで作った布団を作りまして、早速に寝床を作った。 そして、そういう"お米"ではない"粥"で「牛頭天王」を接待し、そして泊めてさし上げたということになっているわけです。 それを「牛頭天王」は非常に喜びまして、そして一夜、その「蘇民将来」の家でくつろぎ、次の日、再会を約束して、また、旅に出るわけです。 そして、南の国において妻を見つけるわけですね。これが日本では「櫛稲田姫(くしなだひめ)」となっておりますが、「牛頭天王」のヒンズーの女の名前では「頗梨采女(はりさいじょ)」と言われております。 この「頗梨采女」という女性を妻に娶る(めとる)わけです。この奥様が日本では「櫛稲田姫」ということに垂迹して、そういうことになっております。 そして、この「頗梨采女」と結婚して二人の間に八人の子供をもうけたことになっております。 確か、五人が男性で三人が女性です。だから、五人の王子と三人の王女をつくったと言われております。 この八人の「八王子」というのも、皆、ものすごい「牛頭天王」と同じように力のある人々であったようですが、いずれにせよ、この「八王子伝承」、伝説と言われるものも、日本では広く分布しているよしであります。 これもいろいろな研究書には、そのように書かれております。
■ 「メタテーゼ現象」
と 「鞍馬の八王子」 私が大学の言語学の時間に習ったんですが、京都では、鞍馬寺が八王子の一人をお祀りしているんだそうです。その王子の名前は「クマラ」で、「クマラ」という王子をお祀りしていたそうです。 ところが、その「クマラ様(さま)」と言うのが"クマラさま、クマラさま、クマラさま、々々々、〜、〜、…"と言っているうちに、ひっくり返りまして"くらま(鞍馬)さま"になって、それが正しい読み名になって、今日伝承している。 ですから、"クマラ"と言ったら、皆、違う"クラマ(鞍馬)"だ!と、今なら言うでしょうが、本来は"クマラ"であるわけですね。 これが、言語学で習ったんで、こんな言葉を書くんですが、「メタテーゼ現象」と言われる、「流音(りゅうおん)」をはさんで、前後の母音がくるっとひっくり返る現象のことです。 「流音」というのは、"らりるれろ"の音のこと。 これが、全世界の言語に起こる現象だそうで、この言語学の教師は、京都では鞍馬寺がそのよい例だと、あれは本当は「クマラ」で、本当は"クマラさま"やぞ、・・と言われ、私も驚いておりました。 それがいつの間にか"くらまさま(鞍馬様)"になったんだと言っておりました。 私ども、日本語の身近な例で申せば、例えば、文語で"新たなる"と申します。これ、口語では"新しい"となっているわけです、これは"新た"がいつのまにか"新しい"になったわけですね。これなんかも「メタテーゼ」の例でございます。 これは全世界あらゆる言語で行われ、定着してしまうんですね。間違いじゃ無くなってしまう現象であります。これが「メタテーゼの現象」。 もともと幼児語だと言われております。 幼児語に多いんですね。・・"エレベータ"か"エベレータ"か解らんようになったりですね。"エベレスト"か"エレベスト"か解らんようになったり、"テレビ"が"テビレ"になったりするやつです。あれが「メタテーゼ現象」です。 私がこのような可笑しな話を申しましたのは、ようするに、この八王子の伝承も私どものごく身近なところに、日本中、いろいろ、広まっているということを申し上げたかったのでございます。 ようするに、この「牛頭天王伝承」と「八王子伝承」というのは日本の文化として非常に密接に関わっておる。 その中心的なもの、あるいは代表的なのが京都の祇園社であるということでございます。
■ 「茅の輪」の"お守り"
と 「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」 さて、その「牛頭天王」は八人の王子と奥様の「頗梨采女」を引き連れまして、再び自分の国へ帰るべく北向し、北へ戻って行くわけですね。その途中で八王子と奥様を連れて「蘇民将来」の家を訪ねまして、旧交を暖めます。 そこで、"私は今夜、あの「巨旦将来」を攻めて、皆殺しにして、あの一族を皆殺しにしたい。"と、こう言う訳です。そして、ついては"「蘇民将来」よ。お前及び、お前の一族の者は「巨旦将来」の一族と区別する為に、腰に「茅の輪」(茅(かや)でできた草の輪っかのこと)を付けておきなさい。これが、その証拠である。それを付けている者は手を触れない。"このように「牛頭天王」は約束するわけです。それで、皆、腰に「茅の輪」を付けるわけです。 これが、今日、祇園祭において「粽(ちまき)」という形になって伝承されている「お守り」の由縁であるわけです。ですから、多くの「粽」には"我は蘇民将来の子孫なり"と書いた紙が付いてあるのが多いと思います。 あれは、“私は「巨旦」とちゃいまっせ。「蘇民」の方でっせ。”・・という意味で、ですから“災いが私の上に降りかからんようにしてください。”・・という意味のお守りであるわけです。ですから、非常に伝承的に古いものをもった祇園祭にとっては、非常に大事な物であるわけです。 最近、熊笹が無くなり、鹿にみな食われたり、とても不足してきて、どっか長野県の方から買い入れたりして、"ちょっと「粽」は今年は値段を上げてもらわな困ります。"・・なんて話が出て、我々は困っているんですが、いずれにしても「粽」というのは、祇園祭に欠くべからざる「お守り」であるということをこの伝承からお解りいただけると思うわけです。 そして、次に「巨旦将来」の家に近づき、あの自分を「蘇民将来」の家に導いてくれた女を呼び出すわけですね。そして、"桃の木の枝"を板に切りまして、その板に"急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)"という文句を書くわけです。これは、中国の言葉で"急ぎ急ぎて、律令のごとく成せ"という意味だそうですが、・・ ようするに"律令"というものは、つまり"規定"ですね。 役所などを運営する時の"規則"ですね。それが"律令"。 ところが、これは中国でも、時代が立つうちに律令が守られなくなって、役所の事務やなんかが、みなええかげんになって、収賄したり贈賄したり、するようになってくるわけです。 その時に御上(おかみ)から"急々如律令"と"急ぎ急ぎて、律令のごとく成せ"!・・ようするに、別の言葉で言えば、綱紀粛正であります。それを、"急々如律令"と言うのだそうです。 この言葉は非常に古い言葉で、"勧進帳"という歌舞伎の中で、弁慶が何も書いていない勧進帳を広げながら、出任せにいろいろなことを言いますね。あの間に"急々如律令、急々如律令、・・"と呟くんだそうです。 私はあの芝居を一回しか見た記憶がないんで、私自身は覚えておりませんが、そのように呟くのだそうです。 また、宮中においても、”四方拝”とかいったいろいろなまつりごとの時に唱えられる言葉なんだそうで、ようするに、普通で申せば、"くわばらくわばら"とか"南無三"とか、災いが及んだ時に"助けて!"という意味のいろんな言葉がございますが、その言葉の一つなんだそうです。"急々如律令"というのは"南無三"という意味だそうなんです。 その言葉を書きつけた板をその女に渡して、“これが「お守り」だから持っていなさい。”というわけです。 ですから、この"急々如律令"というのも、つまり、それを持っていると災いが免れるという意味のようですね、それが"急々如律令"。 八坂神社の前の「真弓宮司」などは、私どもの連合会の為に、扇子に言葉を書いてくださった時にはこの言葉を書いて下さって。"急々如律令"と書かれた扇子が今でも、連合会には飾ってございます。 その板を女に渡します。そのようにしておいて、そして自分の味方には全部お守りを渡す。それから、「八王子」を引き連れて「牛頭天王」は「巨旦将来」の屋敷を襲撃して、そして皆殺しにしてしまうわけですね。 これが、「牛頭天王」を周る伝承でございます。
■ 「出エジプト記」
と ”皆殺しの神様” このような伝承は外国にも非常に多くの似たような例はあります。 それで、これは外国から入ってきたのか?それとも、人間というのは同じような発想をするのか? この比較、一種の文化論の問題があるんですが、私はおそらく人間というのは同じ発想をするんじゃないかという方に近いんですけれども、実際には良く解りません。 例えば、その例を申せば、ユダヤ教の中心になる神話がございます。それは「出エジプト記」と言われる旧約聖書の書物がございます。 これは読まれた方はあると思いますが、有名な「出エジプト」をめぐるエピソードです。 ユダヤ教の伝承、例えば「創世記」などは、みな神話か何かでデタラメだと言う人は多いですが、「出エジプト記」から初めてユダヤの伝承というのが始まるんだという。最近の研究はほぼみなそうなっております。 その「出エジプト記」というのはどういう内容かと申しますと。ようするに、(ユダヤの)イスラエルの民族がエジプトのファラオという王の下でいわば奴隷になって使われていた。 そこでモーセという人物が現れます。これも実はエジプト人だというのが定説ですが、モーセという人物が登場して、イスラエルという民族(実はこれもエジプト人の一派だというのが最近のエジプト学の学説ですが、これも良く解りません。)を率いまして、そしてエジプトを脱出する話ですね、これが「出エジプト」なんです。 ところが、奴隷であるユダヤ人を失いますと、エジプトは経済的に非常な損失をこうむるので、ファラオはモーセの要求に対して、一旦は"行け"と言いますが、"やっぱり止めや!"とこう言うわけですね。なかなか"ウン"と言わない。そのためにモーセの神エホバはその為にいろいろな難儀をエジプトに下すんです。 "いなごの難"とか・・"闇夜の難"・・ですね。そういう難儀が幾つも下るんですけれども、その度に"まいった!、よし、お前ら行ってこい。"と、行かせておいて、途中から、"いや、やっぱり"と言って出て行き、連れ帰るわけですね。 そして、ついに最後に"長子の難儀"という、長男の難儀というのが下るんです。 これは、モーセの神であるところのエホバが、"今晩、私はあらゆるエジプト人の家の長男を皆殺しにする。"
(「牛頭天王」と良く似ておりますでしょう。)という。 “ついては、イスラエルの民、つまりユダヤ人の家は表の戸口に子羊の血を塗っておけ、そしたら、その子羊の血を塗ってあるところは避けて通って、それ以外の家の長男を皆殺しにしてやる。”・・こう言うわけですね。 そして、そこで、ユダヤの民は子羊の血を表に塗っておきますと、その家だけは、皆助かっていく。そして、それ以外の家の長男、これは、ファラオのつまり、エジプト王の長男さえも殺されてしまう。 それが決定的になって、ついにイスラエルの民はファラオの許可を得て、エジプトを脱出する。 しかも尚、もう一度追いかけて行って、あの紅海でみな溺れ死ぬ有名な事件が起こるのですけれども、これはもっと後の話です。 この事件を記念したのが、ユダヤ人最大の祭である、今日の「過ぎ越しの祭」です。災いが自分達の上だけは「過ぎ越し」てゆくわけです。 祇園祭の縁起とそっくりでしょう。 いずれにしましても、つまり、牧畜民俗である、このユダヤ人達の「お守り」は子羊の血であったわけですね。これが、後にナザレのイエスの血になっていくわけでしょうが、それに対して農耕民族である日本人の「お守り」は「茅の輪」であったわけですね。ですから、形は非常によく似ている。 で、最近(2年ほど前ですか?)、「祇園祭の謎?」と称する書物が出て、"この2つが似ているのは、はっきりと伝承があるからだ。"・・と、つまり、エジプトの伝説がインドを通って日本に伝わっているんだ。・・という説を主張した方がおります。 この本は、いろいろ祇園祭のことを、思い違いしておられる箇所もあって、全面的には私は、信用しません。 むしろ類似の伝承があるということで、我々は認識した方がよいと思います。 いずれにせよ、そのようにして、「祇園祭の粽」、そして、「牛頭天王を祭る意味」はそこに発するわけです。 ですから、さきほどのユダヤ人の神の伝承もそうですけれども、いわゆる"佛の慈悲"とか"イエスの愛"とか、そういうふうな発想が宗教に出てくるのはずっと後のことで、それ以前のもっと古い形の宗教というのは、神というのは、「妬みの神」、「怒りの神」、「災いの神」なんですね。で、この「牛頭天王」も同じなんですね。つまり、”皆殺しにしていく神様”です、で、人間はいかにして、その災いから逃れるかということについて汲々として考えておった。そういう非常に古い時代に発する、お祭り、宗教が、この祇園祭であります。非常にそういう点ではユダヤ教と似ておると思いますが、そういうものであります。
■ ”牛頭天王の怒り”
と ”五節の祭礼” そうして、ついでに、付け加えますと、その「牛頭天王」の「巨旦将来」に対する怒りというのは非常に大きかったようで、これは、脇田晴子という人が書いた「中世京都と祇園祭」という本の引用を行いますと、「牛頭天王」は次のように誓いをたてた。 五節の祭礼のうち、正月一日の赤白の鏡餅は巨旦の骨肉である。つまり、"お前ら、あの餅食うてるけど、あの餅は巨旦の肉、食べてるんだぞ。"・・と。 三月三日のヨモギの草餅は巨旦が皮膚である。"草餅食うてるけど、あれは巨旦の皮膚だぞ。"・・と。つまり、敵の体を全部むさぼり食うのが、あの、五節句の意味なんですね。 また、まだまだ続きます。五月五日の菖蒲の粽、あれは巨旦が鬢髪である。つまり、"お前ら敵の髪を食っとるんだ。"七月七日の小麦の素麺は巨旦が筋である。九月九日の黄菊の酒水(お酒)は巨旦が血脈である。"巨旦の血をお前ら酒で飲むんだ。" 総じて、蹴鞠は頭、的は目である。"あの蹴鞠のボールは、あれは巨旦の頭(どたま)だ。的を射るあの、的は巨旦の目である。" 門松は墓験(はかじるし)である。"門松というのは、あれは巨旦将来の墓標なんだぞ!。"・・と、こういうことを書かれているらしいです。 そいう伝承が「牛頭天王」にはあるようです。 つまり、ようするに私どもが五節句としてお祝いしている時、一緒に食べますいろいろな季節のあの食べ物は、全て「巨旦将来」の肉体の各部分を、"ざまー見ろ"と言って食べている。・・という非常に、ですから、えげつない神様のようなんですが、そういうような神様を「牛頭天王」としてお祀りしておる。
■ ”17日の神輿”
と ”祇園祭の伝承” 従って祇園祭の17日に斉行されます、神輿の渡御ですね、あれの最初は「牛頭天王」の御神輿です。二番目が櫛稲田姫、すなわち「頗梨采女」の御神輿。 一番最後の御神輿が「八人の王子」を乗せた御神輿です。この3つの御神輿が出るわけです。 それを、そのいわば露払いとして、私どもは「山」や「鉾」を巡行させておるわけでございます。 従って、祇園祭の伝承というのは、ずっと探っていきますと、非常に古い、ある意味ではユニバーサルな、全世界的な民俗の伝承を引き継いできたものだな、ということが解るわけでございます。 皆様がボランティアとして、各山鉾町にお入りになりますと、おそらく、これにまつわるいろいろな伝承の行事とちらちらと出会われることがあると思います。奇妙にお感じになることもあると思いますが、このような、いわば伝説の上に祇園祭が行われているのだということを、ご承知いただければありがたいと、こう思いまして、本日の講義を終わりたいと終わります。
以上
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