【 祇園祭セミナー 】 No1
【 テーマ 】 山鉾町内 の 歴史 と ボランティア について

講師 : 山鉾連合会理事長 深見 茂

 ■ 「町中(ちょうじゅう)」崩壊の歴史


== 町中組織について ==

・ 1町内は街の1ブロックで道間60間(約120m)の両側に立ち並ぶ家を1町内としていた。
大体、十数軒ないし、数十軒の規模であった。
・ その1町内は「町中(ちょうじゅう)」という自治組織であり、今でいう市役所の出張所のような役目をしていた。
・ 「町中」では印鑑証明や登記、住民票等の人の出入りの管理を行っていた。

== 町中持ち ==
・ 又、町から出て行く人の家を町中が買い取って所有し、祇園祭の飾り付けはこの「町中持ち」の家で行っていた。
・ 「祇園祭」ではこの町内で商売を営むの旦那衆がお金を出し、数々の備品の調達を行い、山や鉾の飾り付けや「飾り席」等の調度品を持っていた。
・ そして、この管理を「町中」の組織が全て行っていたのである。いわゆる、旦那衆がお金を出し合い、この「町中運営」を行っていたのである。

== 町中制度の崩壊 ==
・ 明治維新、京都府政となり古くから続いてきた「寄町(よりちょう)制度」が無くなった。
これにより、これまでの寄付金も無くなり、各山鉾町は多くの美術、芸術品を質入れしなければならないほどの財政難に陥った。
・ 八坂神社では清々講社ができ、各山鉾町の財政難を救ってきた。

・ 明治31年、京都市政が開始し、これまでの「町中」の法人格も無くなり、町中の家を守る為に私的財産とせざる終えなくなり、個人の持ち物として登記していった。やがて、税金の多額化、戦争、インフレ、財産税等の結果多くの町中持ちの家も無くなった。

・ つまり、「寄町制度」の廃止がボディーブロー、そして京都市政の発足による「町中」の法人格喪が致命的アッパーカットとなって、山鉾を維持する町内の組織は法的に崩壊し、単なる「町内会」と化してしまったのである。



 ■ 祇園祭は請負型の祭り


== 町中に住む旦那衆の決め事 ==

・ 日本各地の祭りに外部参加型の祭りが多く見られるのに対して、京都の祇園祭は請負型の祭りである。
・ 旦那衆は町内で賄いきれない部分を他の町内や地域にお金を出し請け負わせていた。
・ 又、山のかき手や曳き手等は京都南部の村などと契約を結び、請け負わせていた。
・ そして、町中に住む旦那衆の決め事は"例年通り・・"の一言であった!
・ かき手は肩の高さを合わせないと力が均等にならず「山」は充分担げない等、大変であったが、これがノウハウとなり、例年通りの一言で請負先に任せられていた。(しかし、これでは長続きしないと、一番に山に車輪を付けたのは保昌山であった。)

== 請負先との労働協約 ==
・ つまり、各山鉾町と依頼を受けた村や青年会等は労働協約を結び、祇園祭を維持してきたのである。
・ しかし、戦後、村人は封建思想をすて、神仏への信仰もすたれ、"安い賃金ではダメ"と、山鉾町との間で賃金をめぐって争議も行われていたようである。
・ そのような中、巡行の休憩時間などに巡行の前や後ろを行く曳き手やかき手の間で「君のところは(賃金)いくらや?」と雇われ同士の会話がされ、賃金契約は更にエスカレートしてきたと聞いている。
・ やがて、村の組織そのものも、都市化の波にのまれて消滅した。
・ かくて安い請負先と新しい雇い入れ先を求め、大学の体育会系のクラブを学生アルバイトとして雇う町内が出てきて、学生側にとっても賃金はクラブの運営費等の良い収入元となった。
・ しかし、10数年前より、大学の前期試験が夏休み前の祇園祭山鉾巡行日に重なる等、学生の確保が難しくなりその永続性が失われてきた。

== ボランティアの出現 ==
・ その頃、まことにタイミング良く、祇園祭の衰退を憂える有識者の主導のもと、京都の青年で作るボランティア団体(京都青少年活動推進会議)が祇園祭を支えたいと申し入れてきた。
・ そして、山鉾町のニーズと合致したこの運動を受け入れ、連合会を通して曳き手を依頼申し上げることとなった。
これが、現在の祇園祭曳き手ボランティアの始まりである。


平成17年4月16日:ボランティア勉強会より